気付けば人生、沼だらけ。

サザンファンがKAT-TUN沼に堕ちてみた日々の雑記、のはずが他にも扉を開き中。

どうやら私はジャニオタでは無い、と気づいたお話。

亀梨君のソロコンを観に行って、中丸沼から片足を亀梨沼に搦め取られ、にっちもさっちもいかなくなっている今日この頃、まだまだ続くソロコンに、やがて始まる中丸君舞台・・年末私はどうなっているのでしょうか・・・。

 

さて今日はそんなふたつの沼に両足を嵌めこんだまま、転んで溺れることなく今の自分の状況を観察してみようと思うのです。

 

ちなみに上田担の友達からは、「いつ上田沼には堕ちるのか?」という質問を受けるのですが、上田君は私の変態ポイントに引っかからないだけで尊敬しているのですよ♡

 

このところTwitter界隈にいると「担当とは?」という思いにかられることが多いのですが、皆さんはそんなことないですか?

はてなブログではしばし「担当」問題についてのものを見かけるし(他グループ含め)「担降りしました」ブログもよくみかけるのですが、人生において「ジャニーズ」というものに関わらずに40年近く生きてきたので、最初「担当」が何を指しているのかもわかりませんでした。

 

ジャニーズタレントの出るドラマや映画はたまに観ていたし、なんなら岡田君の映画などはほぼ観ていたりはするのですが、ジャニーズのCDはKAT-TUNにハマった1年半前まで1枚も持ってなかったし、友達にジャニーズファンの子もいなかったので、ジャニーズ文化について触れることもなく40年近い人生を歩んできたのです。

そんな自分がKAT-TUN沼に堕ちてからは驚くことばかり。

そのひとつが「担当」という概念だったのですね。

 

これについていま深堀りすると自分も痛い目に遭いそうですし、人の傷を抉ることにもなりかねないので、このことについて考えるのはまた今度ゆっくり平和な時に・・と思うのですが、今の状況、つまり「亀梨沼と中丸沼に片足ずつ突っ込んでる状態」を皆さんがどう思っているのか、たまに考えてしまうことがあるのです。

 

これっていわゆる「二股」と見えたり、それぞれへの愛が薄く見えたりするのかな・・。

 

熱く激しく盲目的であることが「愛」であるとは私自身は思わないのだけれど、今のスタンスって理解を得られてるのかしら・・そんなことが気になる小心者の私としては、今の状況を客観的に把握しつつ説明しておこうと思うのです。

 

さて、まず初めに考えなければならないこと、それは

 

亀梨君と中丸君への想いは同じ重さなのか。

 

ということ。

めちゃ難しい・・。

 

だいたい「想いの重さ」ってなんだよ?って、自分自身に突っ込みたくなります。

アイドルを応援する気持ち。それって「重さ」や「深さ」を測らなければならないものなのでしょうか?

何をすればその「想い」は深いって言えるのかな。

その人の為にいっぱいお金を遣うこと?どこまでも追っかけること?

ずっと変わらず何年経ってもその人だけを見続けること?

とりあえず全部の雑誌を買って、全部のテレビを見ること?

そんなことをグルグル考えていて、そういう面で言ったら私のKAT-TUNへの想いは重くないのかなぁって行き着きました。

 

さらに気づいたことがあります。

 

それは、

「好きな人を見るために、好きでもないテレビや雑誌を自分は見れない」

という事実。

 

私にとって、

「自分の好み・趣味>好きな人」

なのですね。

このことに気づいた時、なんだか皆との間に一本の境界線ができた気がしました。

 

私が中丸君を好きになったのとほぼ同時に、自分好みの「ニッポンの出番」が始まり、その後もテレ東万歳組の自分にとっては美味しすぎるドラマ出演などが続いたのですっかり忘れていたのですが、某フ○テレビの「ヒロミ家のリビングでホームビデオ無理矢理見させられてる」感満載のあの苦痛を思い出したのです。

自分がもともと面白いと思ってるものに好きな人が出てくれるのは素敵なマリアージュですが、そうじゃないときはなかなかしんどい(笑)

 

で、改めて他の皆が自分の好きな人が出ている時、どんな見方をしているのかを気にしてみたところ「ワイプを見つめ、自担を褒め称える」スタイルであることが判明。なるほど・・・。

そしてどんな番組でも起用してくれたことに感謝する、謙虚な姿勢。

感謝と要望のメッセージを番組へ出す。

こういう皆さんによって、若いアイドルが少しづつ活躍の場を広げ、認知度をあげていくのだなとなんだか改めて気づかされました。

 

なんというか「ジャニオタ」っていうのは、そのアイドルの世界を作る過程の「内側」にいるんじゃなかろうかと思うのです。

もちろん色んなスタイルはあると思うのですが、私が一番に感じたところはそこかも。

「作られていく過程」にファンの力が作用するからこそ、1枚のCDを買うことに意味や重み、ファンとしての自分の存在意義を見出せると言いますか・・。

 

KAT-TUNは今でこそ「ほぼ完成された」グループだと思うのですが、若い時代のKAT-TUNや、現在進行形で「育ちつつあるグループ」にまったく私が興味が持てなかったのは、そうした視点が自分に無いからなのかなぁと思うのです。

 

私はある程度完成したものが「円熟味」を増していく過程が好きです。

酸いも甘いも知り尽くして、自分自身の「在り方」を見つけ、更にそこから自分なりの深みや方向性を突きつめていく人達が好きなのです。

 

いわゆるコギャル世代でアムラー世代の自分が当時好きだったのが、渡部篤郎であったり永瀬正敏だったことを考えても、この趣向は今に始まったことではないのでしょう。

 

そんな自分がKAT-TUNを見る目は、たぶんファンの皆さんの輪よりほんの少し外側にあるかもしれません。

中丸君の足首に「キャー♡」という時も、亀梨君のはだけたシャツに「キャー♡」という時も、「キャー♡」の対象と共にまわりのファンの皆さんもセットで見えている感じもあるし、なんなら自分の姿もそこに見えている感じです。

 

ハッキリ言って自意識が過剰なのだと思うのだろうけど、そうした「外側の目」を常に持つことで何を好きになろうと、どんなに何かにハマろうと「自分らしさ」を保つことができるし、私にとってはそれはとても重要なことなのだよなぁ・・。

 

なんてことを思いながら、じゃ中丸君と亀梨君に対する私の愛で方はなんなのかと考えてみた。

 

私は「中丸雄一」「亀梨和也」として、ある種既に完成されている感じが好きなのだと思う。

完成されているという意味では「上田竜也」もちろんそうです。

 

人にはそれぞれツボるポイントがあって、そのどのポイントにハマるのか・・という違いなのだろうけど、私の中の両極端にあるポイントを中丸君と亀梨君は交互に突いてくる感じですね。あ、なんか言い方ヤラシいですね・・(笑)

 

ザックリ言うと、亀梨君は私にとって華やかで豪華で色とりどりな花束みたいな感じなんですよ。

西洋画であり、フレンチ料理。

女子が持つ「乙女な部分」をすごく意識させてくれる人。

 

一方、中丸君は盆栽です。判る人だけが判る世界、くるぶしや頭の丸みに、この世の諸行無常や死生観を感じたりしてる。枯山水の世界で、和食。

私の中の「謎の玄人心」を刺激してくれる人です。

 

つまり最初のとこに戻りますが、私の中で亀梨君と中丸君は同時に見比べて「どちらが良い」と比較する対象じゃないということです。

「どちらの花束が好きか」「和食食べるけど、どっちの店にする?」のように同じフィールドに置いてるわけでなく、「素敵な花束ね♡」であり「ウムム・・渋い枝ぶりの松ですな。」の世界なのです。

どちらも素晴らしく、どちらも愛しい。

ちなみに上田君は、生命感溢れる野山であり中華料理だと思ってる。

 

ところで、私は常に自分のハマりポイントを突いてくれるモノを探し続けて生きてきました。

時にそれは人であったり、本であったり、映画や芝居や、70年代という時代であったり様々なんですが、自分のツボにピタッと嵌る何かを見つけたときは毎回ジグソーパズルの最後のピースを嵌めたような、一種の完結を見たような興奮を覚えます。

そしてその最後の1ピースだと感じるような「何か」から、更に世界が広がり始めるときがあります。

 

正にKAT-TUNはこの広がる「何か」でした。

Twitterを始めて世界が広がり、ジャニーズの他の色々を見ることも楽しみになりました。

それでもたまに思うのが、自分を興奮させてくれる次のピースをまた私は探すだろうし、それはジャニーズという世界ではないのだろうなぁということ。

 

恐らく私は永遠に「ジャニオタ」にはなれないのだろうけど、でもそんな人達も広く受け入れて前に突き進む糧として取り込んでいく貪欲さをKAT-TUNとファンは持っていると感じているので、これからもどうぞよろしくお願いします。

 

最終的に何が書きたかったのかわからなくなってきてしまったけど、なんだか私はスッキリしたので、まぁいいか・・。

 

次はもう少しテーマ定めますねw

失礼しました。